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父はアルコール依存症だった?家族から見た「依存症」

幼い頃から、泥酔する父の姿を「普通」だと思って育った漫画家の菊池真理子さん。

けれども、父の死後に「父はアルコール依存症だったのかもしれない」と気づき、依存症が家族に与える影響や、その苦しみを描いたコミックエッセイ『酔うと化け物になる父がつらい』を発表。同作は映画化もされて話題となりました。

菊池さんはそのあとも、アルコールだけでなく、薬物やギャンブルなど、さまざまな依存症について取材し、専門家や当事者の声を漫画で表現してきました。当事者に近い距離から、依存症についてさまざまな思いを巡らせてきた菊池さんに、「依存症」の難しさにどう向き合えばいいのかをお聞きします。

教えてくれるのは…
菊池真理子さん

東京都出身。実体験を漫画化した『酔うと化け物になる父がつらい』(秋田書店)をはじめ、『依存症ってなんですか?』(秋田書店)『うちは「問題」のある家族でした』(KADOKAWA)など著書多数。最新作は、依存症、宗教2世、発達障害などをテーマにした対話集『「ほどよく」なんて生きられない』(共著:横道誠、二村ヒトシ/明石書店)。
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アルコール依存症だった父は、昔もいまも「?」の人

―菊池さんは『酔うと化け物になる父がつらい』で、アルコール依存症の父と過ごした日々を描いて話題となりました。娘の目から見てお父さまはどんな人でしたか。

菊池さん

一言で表すと、私にとって父は昔もいまもずっと「?」な存在でした。何を考えているのかわからない、大きなはてなマーク、謎の人。普段は口下手でおとなしいのに、お酒を飲んで酔っ払うと180度違う人格になってしまう。私が物心ついたときからずっと、泥酔時とシラフのときの差が激しい人でした。

『酔うと化け物になる父がつらい』©菊池真理子(秋田書店)2017

『酔うと化け物になる父がつらい』©菊池真理子(秋田書店)2017

菊池さん

そんな父を見て育ってきたので、私にとってはそれが「普通」だったんですね。大人になったら全員がお酒を飲むものであり、酔っ払った人は暴れるものである。そう思い込んでいたので、父がおかしいとはまったく思っていませんでした。
 
私が42歳のときに、父は食道、肺、脳に転移したがんが原因で亡くなりました。なぜそんなになるまで飲酒をしてしまったのか、最期まで父の口からは理由を聞いていません。謎は謎として残ったまま、もう知ることはできない。だから自分で解釈すればいいや。そんな風に私のなかではいったん区切りがつきました。

―ご自身の中で「区切りがついた」と実感できたのは、何かきっかけがあったのでしょうか。

菊池さん

うーん、もちろん完璧に区切りがついたわけではないのですが、でも、父が亡くなってから5年ほど経過したころにいろいろと思うところがあり、カウンセリングを約1年間受けて、それが終わったタイミングで「やっと区切りがついたかな」という感覚があったんですね。

そもそも、私が「父はアルコール依存症だったかもしれない」と考え始めたのは、父の死から1年が過ぎてからなんです。仕事をしているなかで、たまたま参加したセミナーでアルコール依存症について教わり、初めてその可能性に気づいたんですね。

『依存症ってなんですか?』©菊池真理子(秋田書店)2021

―「お酒を飲む」こと自体は日常の楽しみでもあるため、どこからが依存症になるのかの見極めが難しい気がします。

菊池さん

これはアルコール依存症外来の先生の言葉の受け売りですが、「人間関係が壊れたら依存症」と考えていいそうです。依存症の症状はグラデーションですから、ここからが依存症です、というきっちりとした線引きはありません。多くの人がイメージする手がブルブルと震えるとか、つねにお酒を飲み続けずにはいられない連続飲酒などは、アルコール依存症の症状がかなり進んでいる状態です。

それよりもっと手前の段階、お酒による失言や行動が原因で人間関係が壊れたことがあるだけでも、依存症の治療対象になるそうです。

―酔いが覚めてから、「昨日は酔っ払ってごめん」と謝って許してもらうような形でも?

菊池さん

「ごめん」と謝られた側が許すことができて、関係性が元通りになれるのであれば、そこまで心配はいらないのかもしれません。でも、酔ったときの言動が原因で修復不可能なほどに関係性が壊れてしまった経験があったり、周囲から一緒に飲むことを避けられていると感じたりするならば、それはアルコール依存症を疑っていいのではないかと私は思います。

何より、酔っ払った人の暴言や迷惑な行動で一番被害を受けるのは、当事者の近くにいる人、つまりほとんどの場合は家族です。私も泥酔した父を介抱しようとしても、「うるさい!」「どっか行け」などのひどい言葉を投げつけられましたし、「酔っているときの言葉は本音」という考え方にも傷つけられてきました。

「そんな酔っ払いは自業自得なんだから放っておけばいい」と言う人もいますが、一緒に暮らしている以上はそうもいきません。家の床中に吐瀉物がまき散らされているのを放っておくのは、吐いた本人以上にその空間で暮らしている私たちがつらい。だから、世話をせざるを得ない。

そんな風に身近にいる家族も否応なしに巻き込まれてしまう病気、それが依存症の大きな特徴だと思っています。

家族にとっても認めきれない「否認の病」

―漫画という表現手段でアルコール依存症に向き合ったことで、ご自身の心境の変化などはありましたか?

菊池さん

私はずっと人生に生きづらさを感じていたのですが、その原因の9割は、私が14歳のときに自死した母だと思い込んでいました。じつは、父の飲酒も影響していたことにはあまり気づいていなかった。

でも、アルコール依存症という病気を知り、そのフィルターを通じて父を眺めてみたら、それまでとは違う風景が見えてきた。そういう意味で、自分のためにもあの作品を描くことができてよかったです。描いている最中はずっとメンタルが不安定なままで大変でしたが……。

一方で、これを言うと驚かれるのですが、父の死後に『酔うと化け物になる父がつらい』を描き終え、さらにそのあとに依存症当事者の方々に取材した『依存症ってなんですか?』(2021年刊行)を描いているときですらも、私は「自分の父はアルコール依存症だった」とまだ認識しきれてはいなかったんです。

―なぜでしょう?

菊池さん

「うちの父よりもっとひどい言動をしている人もいる」という思いが、まだ心のどこかにあったんですよね。ほかにも、「私が父を悪く描きすぎているだけでは」「私の我慢が足りていなかっただけかも」とも考えてしまって。

―本来ならブレーキ役になってくれるお母さまが不在となったことで、長女である菊池さんが責任を負う形になってしまったのかもしれません。

菊池さん

依存症の専門家に話を聞きに行き、病気の知識を学び、漫画に描いて講演などで話をしても、まだそんな風に考えてしまう自分がいました。実際、生前の父はアルコール依存症とは診断されていないため、断言しきれないことも理由ではあるのですが。

先ほど、父の死後にカウンセリングに通ったとお話しましたが、そのときにカウンセラーの先生に「父は本当にアルコール依存症だったのでしょうか?」と聞いてみたときも、「まだそんなことを思っていたの?」と驚かれました。

依存症は、依存していることを本人が認めようとしないことから「否認の病」とも呼ばれます。でもそれって当人だけでなく、家族にとっても「否認の病」なんですよね。

知識として理解はしても、自分の父とはなかなか結びつかなかった。
私の場合も長い時間をかけながら、ようやくじわじわと理解できてきたような気がしています。

「病気」と「被害」を分けて考える

―作品や講演などを通じて依存症当事者の方たちと直接話す機会も増えたそうですが、何か発見はありましたか。

菊池さん

私は酔っ払った父にずっと振り回されてきたので、それまでは依存症当事者の方たちをどうしても家族を傷つける「加害者側」として見てしまっていたんですね。でも実際に会って話してみると、自分とすごく似ている人もいたし、同じ人間同士で根っこはそう変わらないんだ、と思えるようになったのが発見でした。

一方で、依存症の家族に苦しめられてきた方たちとは、もう涙なしには話せないくらいに共感してしまいました。心の内を語れる場所が少ないからこそ、皆さんいざ本音が出てくるともう止まらない。ほとんどの方が、依存症の家族に対して「いなくなればいいのに」と考えたことがあるし、そう思ってしまう自分を責めて罪悪感を抱いていた。依存症の家族を持つ人たちがそういった本音を出せる場所がもっと増えたらいいのに、と切実に思いました。

―同じ立場の人同士で本音を打ち明け合うことで、前向きになれる作用もあるのでしょうか。

菊池さん

本音を言い合えたところで、問題自体は解決しません。でも、大きな荷物をずっと自分ひとりで持っていた状態から、何人かで一緒に持てるようになることでちょっとだけ軽く感じられるようにはなる。そういう作用はあるように思います。

以前、私がカウンセリングを受けた際、臨床心理士の先生からは、「病気」と「被害」は分けて考えましょうと言われました。

家族の誰かが依存症になったら、健康な家族はその病人の世話をしなければならなくなる。すると、依存症の人に振り回されて、自分のケアはどんどん後回しになってしまう。家族の「病気」に巻き込まれて、自分が「被害」を受けている状態にあることに、人はなかなか気づけないので。

でも同じ立場の人同士でつながることができるようになれば、その状態から抜け出す最初の一歩になるはずです。

『依存症ってなんですか?』©菊池真理子(秋田書店)2021

―過去の菊池さんのように、「依存症かもしれない家族に困っている人」は、まずどこに相談するとよいと思われますか。

菊池さん

まずは、自治体の相談窓口や精神保健福祉センターに相談してみるのがいいのではないでしょうか。依存症の治療に関する情報や医療機関、家族会などの問い合わせ先を教えてもらえるはずです。

気持ちを打ち明けて楽になるという意味ではSNSで同じ立場の人とつながるのもひとつの手かもしれませんが、最近はいろいろなリスクもあるので難しいですね……。

全国の相談窓口・医療機関を探す(依存症対策全国センター)
https://www.ncasa-japan.jp/you-do/treatment/treatment-map/

全国の精神保健福祉センター(厚生労働省)
https://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/iyakuhin/yakubutsuranyou_taisaku/hoken_fukushi/index.html

身近な人が依存症になったとき、すべきこと

―アルコールや薬物、ギャンブルなど、特定の物質や行動に依存する状態が続く依存症は「精神疾患」であるとWHO(世界保健機構)でも定義されています。近年は「依存症」の理解も進んでいるように感じますが、菊池さんは世間の認識の変化をどう感じていますか。

菊池さん

たしかに依存症に関心を持つ人は増えたように感じますし、そういう人たちと話していると「社会は変わったね」と前向きに思えることもあります。でも、依存症の人が何かのニュースで炎上して「自己責任だろう」「意思が弱いだけ」と非難されていると、「ああ、まだ全然理解されていないのだな」とも感じますね。

また、「共依存」「イネイブラー(依存症を助長する行為を周囲の人が行うこと)」などの専門用語が、誰かを攻撃するための言葉として使われている光景も見るようになりました。私自身、そう言われて傷ついたことがあるので、心理職などの専門家でない人が軽々しく口にするのは控えたほうがよいと思っています。

一方で、自分も含めていまの時代は誰もがちょっとした依存を抱えているのかな、と最近は考えるようになりました。「あなたはスマホ依存だ」と言われたら、多くの人がドキッとする気がします。スマホ以外にも、コーヒーやゲームなど、誰しもがちょっとした心当たりはあるのではないでしょうか。

―たしかにそうですね……。では、健やかな範囲の依存と、病気としての依存症の違いはどこにあるのでしょうか。

菊池さん

やはり、自分の体に負荷をかける、他人に迷惑をかけるなどの兆候が現れてきたら危うい気がしますね。ほどよいコーピング(ストレスに対処するための意識的な行動)であったはずのものが、いつの間にか自分や周囲をむしばむものになってしまっていたら、依存症を疑っていいのかもしれません。

以前お会いした精神科医の先生が、「依存症患者はみんなステージ4だ。もっと早い段階で来てくれたらいいのに」とお話しされていたのですが、ほとんどの依存症の方は症状が悪化して最終段階にならないと治療に来ようとしないそうなんですね。それよりもっと手前の「酔うと記憶をなくしてしまう」程度のときにでも来てくれたら、もっといろんな治療法が提案できるのに、って。

―依存症に限らず、なるべく早い段階で相談窓口などにつながる。それが当事者のためにも、家族のためにも一番の近道になる。

菊池さん

本当にそうですね。当事者にならない限り、なかなか知識が入ってこないのも依存症の難しいところかもしれません。でも、知識のあるなしに関係なく、困っている人が近くにいたら「一緒に考えてみようか」と寄り添ってみる。そういう姿勢をみんなが持てるようになるだけでも、社会はきっといい方向へ変わっていくはずです。

CREDIT
取材・文:阿部花恵 写真:小野奈那子 編集:HELiCO編集部+ノオト
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